唐とモンゴル高原、チベット、雲南
≪問題≫
隋を受け継いで大帝国を樹立した唐は、近隣の諸国や諸民族に大きな影響を与えた。唐の文化を受容し、あるいは唐と政治的関わりをもったモンゴル高原、チベット、雲南地方の諸国や諸民族の7世紀から9世紀にかけての興亡について、300字以内で述べよ。
(2002年 京大)
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≪解説≫
ひねった問題ではない。素直に答えればいいのだが、意外とこういう設問が、簡単そうで難しいかもしれない。
答案を書き始める前に、次のようなスケッチができればいい。要するに、キーワードが正確に出てくるかどうかだ。
○モンゴル高原:突厥→ウイグル
○チベット:吐蕃、ソンツェン・ガンポ、チベット仏教
○雲南:南詔
あとは、これらのキーワードを使いながら、歴史を説明する文章が作れるかどうかだ。
問題文から注意点をひろいあげると、「唐の文化の受容」と「唐との政治的関わり」の2点、それから7世紀から9世紀という時代だろう。
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≪解答例≫
モンゴル高原を中心に大遊牧国家を作り上げた突厥は、6世紀末には東西に分裂したが、唐の建国に騎馬軍団をもって援助するなど、大きな勢力をもっていた。しかし、8世紀半ば、東突厥はウイグルに滅ぼされた。ウイグルは、8世紀半ばの安史の乱に際しては唐に援軍を送るなど勢力を誇ったが、9世紀にはキルギスに滅ぼされた。チベットでは、7世紀にソンツェン・ガンポが統一国家である吐蕃を建設し、のちにチベット文字やチベット仏教も生まれた。雲南では、唐の文化の影響を受けて、8世紀には南詔が勢力を広げた。7世紀の唐は都護府を通じた羈縻政策により周辺を支配したが、8世紀以降はそうした統制も崩れ、ウイグルや吐蕃は唐に攻め込んだ。
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≪補足≫
教科書レベルの記述で書くとなると、上記の解答例くらいの文章になるだろう。ただ、教科書では、突厥やウイグルについては具体的な記述もあるが、吐蕃や南詔については名称程度しか触れられていない。だから、吐蕃や南詔が唐とどんな関係にあったのか、唐からどんな影響を受けたのか、という点について、不満が残る。
教科書レベルをやや超えて、吐蕃や南詔について、もう少し見てみよう。
【吐蕃】
唐は、皇室の女性をチベットに嫁がせて、チベットと和平を結んでいた(こうした降嫁は中国の文物がチベットに伝わる契機となった)。しかし、唐の周辺支配力の弱体化する8世紀半ば以降、吐蕃は唐の領内に攻め込み、763年には一時、唐の首都である長安を占領した。また、吐蕃は786年ころには敦煌をも占領し、これにより、唐は西域諸国との直接的な関係を断たれた。
吐蕃を「チベット地域」をさす名称として用い続ける場合もあるが、7世紀初めに成立した国家としての吐蕃は、9世紀中ごろまでに滅亡する。上記問題の出題者は、9世紀に吐蕃が滅亡したことまで書いてほしかったのかもしれない。
世界史の研究>用語解説>チベット
http://homepage2.nifty.com/murasaki-miyako/terms/a1tibet.html
【南詔】
8世紀半ば、南詔は吐蕃に臣属していた。南詔と吐蕃の連合軍は、8世紀半ばにいくどか唐の軍勢と戦っている。ところが、8世紀末には、南詔は一転して唐と盟約を結び、吐蕃を攻撃している。唐も吐蕃も弱体化した9世紀にはいると、南詔は強勢となり領域を拡大した。
世界史の研究>用語解説>雲南省
http://homepage2.nifty.com/murasaki-miyako/terms/a1yunnan.html
【東突厥の滅亡】
東突厥の滅亡についての教科書の記述はこうなっている。
「突厥は、6世紀末に東西に分裂したものの、唐の建国に際し騎馬軍団をもって援助するなど、大きな勢力をもった。8世紀なかばに東突厥をほろぼしたウイグルは、唐代中期以降の混乱に乗じて中国を圧迫したが、9世紀にはキルギスに敗れて滅亡し、一部はタリム盆地に移動した。」(山川出版社『詳説世界史B』)
この文章では、ウイグルが東突厥を滅ぼした、としか読めない。ところが、歴史書では、これとは異なる記述がなされている。
つまり、630年に唐が東突厥を滅ぼし(突厥第一可汗国の滅亡)、以後、モンゴル高原は唐の羈縻支配におかれることになった。ところが、唐の支配に対してテュルク系諸族が独立の動きを見せ始め、7世紀後半(682年)には東突厥が復興する(突厥第二可汗国の成立)。そして、8世紀には内輪もめの続く突厥を、ウイグルが攻撃して滅ぼした(744年、東突厥の滅亡)。
要するに、紙面の制約のある教科書では、途中の経緯が省略されているのだ。こうして時代順に並べてみると、モンゴル高原における羈縻支配が短期間しか続かなかったことがわかる。
小松久男 編『中央ユーラシア史 世界各国史4』山川出版社p67-71
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