唐とモンゴル高原、チベット、雲南

≪問題≫

隋を受け継いで大帝国を樹立した唐は、近隣の諸国や諸民族に大きな影響を与えた。唐の文化を受容し、あるいは唐と政治的関わりをもったモンゴル高原、チベット、雲南地方の諸国や諸民族の7世紀から9世紀にかけての興亡について、300字以内で述べよ。
(2002年 京大)

---------------------------------------------

≪解説≫

ひねった問題ではない。素直に答えればいいのだが、意外とこういう設問が、簡単そうで難しいかもしれない。

答案を書き始める前に、次のようなスケッチができればいい。要するに、キーワードが正確に出てくるかどうかだ。

○モンゴル高原:突厥ウイグル
○チベット:吐蕃、ソンツェン・ガンポ、チベット仏教
○雲南:南詔

あとは、これらのキーワードを使いながら、歴史を説明する文章が作れるかどうかだ。

問題文から注意点をひろいあげると、「唐の文化の受容」と「唐との政治的関わり」の2点、それから7世紀から9世紀という時代だろう。

---------------------------------------------

≪解答例≫

モンゴル高原を中心に大遊牧国家を作り上げた突厥は、6世紀末には東西に分裂したが、唐の建国に騎馬軍団をもって援助するなど、大きな勢力をもっていた。しかし、8世紀半ば、東突厥はウイグルに滅ぼされた。ウイグルは、8世紀半ばの安史の乱に際しては唐に援軍を送るなど勢力を誇ったが、9世紀にはキルギスに滅ぼされた。チベットでは、7世紀にソンツェン・ガンポが統一国家である吐蕃を建設し、のちにチベット文字やチベット仏教も生まれた。雲南では、唐の文化の影響を受けて、8世紀には南詔が勢力を広げた。7世紀の唐は都護府を通じた羈縻政策により周辺を支配したが、8世紀以降はそうした統制も崩れ、ウイグルや吐蕃は唐に攻め込んだ。

---------------------------------------------

≪補足≫

教科書レベルの記述で書くとなると、上記の解答例くらいの文章になるだろう。ただ、教科書では、突厥やウイグルについては具体的な記述もあるが、吐蕃や南詔については名称程度しか触れられていない。だから、吐蕃や南詔が唐とどんな関係にあったのか、唐からどんな影響を受けたのか、という点について、不満が残る。

教科書レベルをやや超えて、吐蕃や南詔について、もう少し見てみよう。

【吐蕃】

唐は、皇室の女性をチベットに嫁がせて、チベットと和平を結んでいた(こうした降嫁は中国の文物がチベットに伝わる契機となった)。しかし、唐の周辺支配力の弱体化する8世紀半ば以降、吐蕃は唐の領内に攻め込み、763年には一時、唐の首都である長安を占領した。また、吐蕃は786年ころには敦煌をも占領し、これにより、唐は西域諸国との直接的な関係を断たれた。

吐蕃を「チベット地域」をさす名称として用い続ける場合もあるが、7世紀初めに成立した国家としての吐蕃は、9世紀中ごろまでに滅亡する。上記問題の出題者は、9世紀に吐蕃が滅亡したことまで書いてほしかったのかもしれない。

世界史の研究>用語解説>チベット
http://homepage2.nifty.com/murasaki-miyako/terms/a1tibet.html

【南詔】

8世紀半ば、南詔は吐蕃に臣属していた。南詔と吐蕃の連合軍は、8世紀半ばにいくどか唐の軍勢と戦っている。ところが、8世紀末には、南詔は一転して唐と盟約を結び、吐蕃を攻撃している。唐も吐蕃も弱体化した9世紀にはいると、南詔は強勢となり領域を拡大した。

世界史の研究>用語解説>雲南省
http://homepage2.nifty.com/murasaki-miyako/terms/a1yunnan.html

【東突厥の滅亡】

東突厥の滅亡についての教科書の記述はこうなっている。

「突厥は、6世紀末に東西に分裂したものの、唐の建国に際し騎馬軍団をもって援助するなど、大きな勢力をもった。8世紀なかばに東突厥をほろぼしたウイグルは、唐代中期以降の混乱に乗じて中国を圧迫したが、9世紀にはキルギスに敗れて滅亡し、一部はタリム盆地に移動した。」(山川出版社『詳説世界史B』)

この文章では、ウイグルが東突厥を滅ぼした、としか読めない。ところが、歴史書では、これとは異なる記述がなされている。

つまり、630年に唐が東突厥を滅ぼし(突厥第一可汗国の滅亡)、以後、モンゴル高原は唐の羈縻支配におかれることになった。ところが、唐の支配に対してテュルク系諸族が独立の動きを見せ始め、7世紀後半(682年)には東突厥が復興する(突厥第二可汗国の成立)。そして、8世紀には内輪もめの続く突厥を、ウイグルが攻撃して滅ぼした(744年、東突厥の滅亡)。

要するに、紙面の制約のある教科書では、途中の経緯が省略されているのだ。こうして時代順に並べてみると、モンゴル高原における羈縻支配が短期間しか続かなかったことがわかる。

小松久男 編『中央ユーラシア史 世界各国史4』山川出版社p67-71

| | コメント (0) | トラックバック (1)

第1次世界大戦中のイギリス植民地

≪問題≫

第1次世界大戦は予想をはるかに超えて長期化し、これにかかわったヨーロッパのおもな国々は本国の大衆を動員しただけではなく、さらには、植民地や保護国を抑えつけながらも、同時にその力を借りて戦わねばならなかった。このことに関して、イギリスを例にとり、インドおよびエジプトに対して大戦中にどのような政策がとられたかを、そのことが戦後に生み出した結果にも触れつつ、300字以内で説明せよ。

(2003年 京大)

---------------------------------------------

≪解説≫

ストレートに問題文を読むと、「イギリスがインドおよびエジプトに対して第1次世界大戦中にとった政策」について答えなければならなくなる。

しかし、その点について、教科書には具体的な記述はほとんどない。一般的な動向として、宗主国は植民地に対して、戦後の自治や独立を約束する代わりに戦争に物的・人的な協力をさせた、といった内容が書かれているだけだ(ヨーロッパ戦線でインド兵がイギリス軍において戦っている写真などが、教科書や資料集には載っている)。

ただ、それだけでは300字には届かない。

【解法のポイント】

そういう意味で、この問題は答案を書くのに工夫がいる。教科書レベルの知識で文章を作るとなると、問いの核心部分には簡潔に答え、その周辺部分で具体的な記述を入れて膨らませることになる。

結果として、「大戦中の政策」そのものについての記述分量は少なく、また抽象的になるが、ある程度やむをえないだろう。

ポイントは次の3つ。

1)総力戦である第1次世界大戦を戦うため、イギリスは植民地から資金や物資、労働力や兵員を動員して戦争に協力させた。そのためには、戦後の自治や独立を約束して、植民地の民族独立運動家の支援を得る必要があった。

2)インドでは、大戦中に多くのインド兵の戦死者が出たにもかかわらず、戦後の1919年に制定されたインド統治法では、州行政の一部を除き、イギリスがインドの中央政府を支配し続けることになった。また、同年のローラット法は、インド人の民族運動を弾圧することを目的とした。こうしたイギリスの姿勢に対するインド民衆の反発は強まり、ガンディーを指導者とする民族運動が高揚することになった。

3)エジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国は、ドイツと組んで同盟国として第1次世界大戦に参戦した。連合国であるイギリスは、ウラービーの乱(1881-82年)の鎮圧後エジプト支配を強めていたが、第1次世界大戦の勃発した1914年、エジプトとオスマン帝国の関係を切り離し、エジプトをイギリスの正式な保護国とした。第1次世界大戦後、エジプトでもワフド党を中心とした独立運動が高まった。

【構成、その他】

[総論]→[インド]→[エジプト]の順で書いていけばよいだろうが、難しいのはエジプトだろう。オスマン帝国との関係が思い浮かばないと、答案が平板になる。点差がつくのもこの箇所だろう。

また、インドでは、イギリス軍がインド民衆に発砲して多数の死者を出したアムリットサール事件(1919年)、エジプトでは、イギリスの保護権放棄とエジプト王国の成立(1922年)、などまで言及するのもいいだろう。

---------------------------------------------

≪解答例≫

イギリスは、植民地や保護国から資金や物資、労働力や兵員を動員して戦争に協力させるため、戦後の自治や独立を約束した。ところがインドでは、1919年のインド統治法においてもイギリスが中央政府を支配し続けることになり、同年のローラット法によってインド人の政治運動が弾圧された。そうしたイギリスの姿勢に対するインド民衆の反発は強まり、ガンディーを指導者とする民族運動が高まっていった。イギリス支配の強まっていたエジプトでは、イギリスの敵国となったオスマン帝国からエジプトを切り離すため、イギリスは1914年にエジプトを正式な保護国とした。戦後、ワフド党を中心とした独立運動が高まり、1922年にエジプト王国が成立した。

---------------------------------------------

≪補足≫

【ワフド党】

エジプトの民族主義政党で、ワフドとは「代表」を意味する。イギリスからの独立を求めて、パリ講和会議に代表団を送ろうとしたことに、その名は由来する。

1922年にイギリスは保護権を放棄してエジプト王国が成立するが、これは形式にすぎず、実態としてのイギリス支配は続いていた。

ワフド党は1924年に正式な政党となり、「エジプト人のエジプト」をスローガンに完全独立をめざして運動を続けた。

政権を握ったワフド党は、1936年にエジプト・イギリス同盟条約を結び、イギリスにスエズ運河の駐兵権を認める代わりに、主権をほぼ回復した。

しかし、この譲歩を不満とする民族運動はさらに高まり、1951年にはエジプト側がこの条約を破棄。1952年のエジプト革命によりナセルらが政権を握ると、ワフド党は1953年に解散させられた。

【インド統治法】

インド統治法は、イギリス議会がインド統治のために成立させた法律の総称で、その年代によって内容が違う。

有名なのは、1909年、1919年、1935年のあたりだが、教科書では「1919年インド統治法」とか「1935年インド統治法」とかいった表現で区別してある。

インド統治法は、1919年のものは州政治を部分的に、1935年のものは州政治を全面的に、インド人にゆだねるという内容だったが、いずれの法律も、財政・防衛・外交など中央政府の権能はイギリス政府が握ることに変わりなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

第2次中東戦争(スエズ戦争)

≪問題≫

1954年に始まったアルジェリア戦争では、アラブ世界がアルジェリア民族解放戦線側に有形無形の支援を行った。1956年、この支援に対抗することを目的の一つに、フランスはイギリスとともにアラブ世界への軍事介入を行う。この介入によって起きた紛争が一般に何と呼ばれているかを明示したうえで、その紛争へのイスラエルの関わり方と、その紛争の終結にいたる過程を、簡潔に説明せよ。

(2004年 京大)
---------------------------------------------

≪解答例≫

第2次中東戦争(スエズ戦争) エジプトがスエズ運河の国有化を宣言したことに対抗して、イギリス、フランス、イスラエルはエジプトに対して軍事行動をおこしたが、国際世論の批判や米ソの警告を受けて、3国は撤退した。

---------------------------------------------

≪解説≫

問題文がアルジェリアから入ってくるので、一瞬、アレッと思うが、すぐに第2次中東戦争のことだとわかる。「イスラエルの関わり方」という表現が難しく感じるが、要するに、どちらの味方でどこと戦ったか、という点を書けばいいだろう。

【解法のポイントは3つ】

1)第2次中東戦争(スエズ戦争)と明記すること

2)イスラエルが英仏の味方としてエジプトと戦ったこと

3)国際世論の批判などにより英仏イスラエルが撤退したこと

【補足的知識】

・エジプト革命(1952年)の後、1956年に大統領となったナセルは、ソ連などの社会主義諸国に接近した

・ナセルの外交政策に反発した米英は、エジプトへの経済援助を停止した

・ナセルは、アスワン・ハイ・ダムの建設資金を確保するため、スエズ運河の国有化を宣言した

・英仏はスエズ運河に利権をもち、それを維持することをめざした

・イスラエルは、シナイ半島からエジプトを追い出し、紅海~インド洋への航路を確保することをめざした

第1次中東戦争以降、エジプトとイスラエルは敵対関係にあった

・フランスは、独立をめざすアルジェリア民族解放戦線と戦っていた(アルジェリア戦争

・フランスは、エジプトのナセル政権がアルジェリア民族解放戦線を支援していると考えていた

・第2次中東戦争の勃発後、アメリカはソ連と手を組み、停戦と3国の即時全面撤退を通告した

・国連の緊急総会で、3国に対して即時停戦を求める決議が採択された

・エジプトのナセル大統領はスエズ運河の国有化を実現し、アラブ世界での発言力を強固なものとした

| | コメント (0) | トラックバック (0)

銀による世界経済の一体化

≪問題≫

1985年のプラザ合意後、金融の国際化が著しく進んでいる。1997年のアジア金融危機が示しているように、現在では一国の経済は世界経済の変動と直結している。世界経済の一体化は16、17世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる。19世紀には植民地のネットワークを通じて、銀行制度が世界化し、近代国際金融制度が始まった。19世紀に西欧諸国が金本位制に移行するなかで、東アジアでは依然として銀貨が国際交易の基軸通貨であった。この東アジア国際交易体制は、1930年代に、中国が最終的に銀貨の流通を禁止するまで続いた。

以上を念頭におきながら、16~18世紀における銀を中心とする世界経済の一体化の流れを概観せよ。解答欄は16行以内とし、下記の8つの語句は必ず1回は用いたうえで、その語句の部分に下線を記せ。

グーツヘルシャフト(農場領主制)   一条鞭法   価格革命
綿織物    日本銀   東インド会社   ポトシ
アントウェルペン(アントワープ)

(2004年 東大)

---------------------------------------------

≪解説≫

16行の大論述を作るとき、指定語句は大いに参考になる。というか、指定語句を時代順・地域毎に並べて、その解説をそれぞれ書いていくだけで16行ほどになる。そんな答案は大した出来ではないが、それでもある程度の点はもらえるだろう。

そう思えば気楽だが、それでも文章のつなげ方は難しい。いや、指定語句の説明を寄せ集めるような安易な論述作法でよいのか、といった疑問もある。

とりあえず、指定語句が教科書でどのように記述されているかを見てみよう。

---------------------------------------------

<教科書の記述>(山川出版社の世界史Bより)

ポトシ、価格革命

「1545年に発見されたポトシ銀山など、ラテンアメリカの銀山から大量の銀が流入し、ヨーロッパの物価は2~3倍に上昇した。この物価騰貴は価格革命とよばれ・・・・」

アントウェルペン(アントワープ)

「1609年の休戦条約で独立を事実上かちとった(オランダ独立戦争)。オランダのアムステルダムは、フランドルのアントウェルペン(アントワープ)にかわって国際金融の中心となり、・・・・」

グーツヘルシャフト(農場領主制)

「西欧諸国では商工業が活発となる一方、エルベ川以東の東ヨーロッパ地域は西欧諸国に穀物を輸出するため、領主が輸出用穀物を生産する直営地経営をおこなうグーツヘルシャフト(農場領主制)がひろまり、農奴に対する支配がかえって強化された。」

日本銀

「中国の周辺でも16世紀には国際商業が繁栄した。・・・・当時急速に生産をのばした日本の銀、ついでアメリカ大陸のスペイン植民地で採掘された銀が大量に中国に流入した。」

一条鞭法

「税の納入も銀でおこなわれるようになり、16世紀には各種の税や徭役を銀に一本化して納入する一条鞭法の改革が実施された。」

東インド会社、綿織物

「ヨーロッパの商業勢力の活動が本格化する17世紀から18世紀にかけて・・・・オランダやイギリス・フランスなど、ヨーロッパ各国の東インド会社は、ヨーロッパで需要の大きいインド産綿布の獲得を目的として、インド各地に着々と商館を建設し、商業活動を拡大し、その対価として、インドへ金や銀を大量にもちこんできた。」

---------------------------------------------

<解法の手順>

問われているのは、「16~18世紀における銀を中心とする世界経済の一体化の流れ」だ。

歴史書を読んでいる人は、こういう問題を見ると、すぐに「世界システム」とか「17世紀の危機」とか「東アジアの商業の時代」とかいった用語を思い浮かべるが、入試問題を解くのは受験生だ。受験生が知っているべき知識、つまり教科書レベルの記述をもとに、答案を作らなければならない。

次の手順で答案を書いてみよう。

1)指定語句を時代順・地域毎に並べる

16世紀
〔南アメリカ〕ポトシ
〔西ヨーロッパ〕価格革命、アントウェルペン(アントワープ)
〔東ヨーロッパ〕グーツヘルシャフト(農場領主制)
〔中国〕日本銀、一条鞭法

17~18世紀
〔インド〕東インド会社、綿織物

2)指定語句から、銀の流れと世界経済の結びつきのポイントを考える

(ポイント1)
アメリカ大陸のスペイン植民地から大量の銀が採掘され、そのことがヨーロッパの東西にそれぞれ影響を与えた

(ポイント2)
アメリカ銀や日本銀が中国に大量に流入し、中国では税制が変化した

(ポイント3)
各国の東インド会社が求めるインド産綿織物の対価として、インドにも銀が流入した

3)指定語句にはない補足的内容を考える

このまま書き始めてもいいのだが、もう一歩踏み込んでみよう。銀とは貨幣であり、貨幣とは商品の対価(商品そのもの)である。つまり、売り手から買い手へと商品が渡るということは、買い手から売り手へと貨幣が渡るということだ。

何を言いたいかというと、銀の流れと商品の流れは逆になっているという点、すなわち、アメリカの植民地からヨーロッパが手にした銀が、中国やインドに流れ込んでいたということは、中国やインドからさまざまな商品がヨーロッパに渡っていたということだ。

どんな品々がアジアからヨーロッパに輸入されたのか。インドの綿織物、中国の生糸や陶磁器、東南アジアの胡椒や香料。本当ならそこまで書き切りたいところだが、さほど解答欄は残らないかもしれない。

また、全体のまとめとして、銀の流れが世界各地に浸透する中で、世界各地の社会に影響を与え、世界経済の一体化を進めた、という文章をしめくくりとしたい。

欲を言えば、16世紀はポルトガル・スペイン、17世紀はオランダ、18世紀はイギリスとフランスが、ヨーロッパにおける世界貿易の中心国。それらの国名が挿入できれば記述に具体性が増す。

---------------------------------------------

<解答例>

16世紀にスペインが植民地としたアメリカ大陸では、ポトシ銀山
どから大量の銀が採掘された。それらの銀は西ヨーロッパに流入し、
価格革命と呼ばれる物価騰貴が生じ、これが領主層に打撃を与えて
農奴支配が揺らいだ。また、北イタリアなどの地中海沿岸から、
ントウェルペン
など大西洋沿岸に遠隔地貿易の中心地が移動する、
商業革命も起こった。その一方、西ヨーロッパに穀物を輸出する東
ヨーロッパでは、グーツヘルシャフトがひろまり、かえって農奴制
が強化された。中国では生糸や陶磁器の生産がのびて、ポルトガル
の商人などを介して、ヨーロッパをはじめ世界各地に輸出された。
その対価として、アメリカ大陸の銀や日本銀が大量に中国に流入し、
明代には税を銀に一本化して納入する一条鞭法も実施された。17世
紀には、オランダ、イギリス、フランスは東インド会社を設立し、
アジア貿易を本格化させた。特にインド産綿織物はヨーロッパ向け
に多く輸出され、その対価として銀がインドに流入した。こうして
18世紀まで、ヨーロッパ諸国がアジアの物産を買い求める一方、ア
メリカ大陸の銀がアジアに流入し、世界経済の一体化が進んだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

18世紀半ばのインドとイギリス

≪問題≫

インド洋世界の中心に位置するインド亜大陸は、古来、地中海から東南アジア・中国までを結ぶ東西海上交通の結節点をなし、また、中央ユーラシアとも、南北にのびる陸のルートを通じてつながりを持ち続けてきた。以上の背景をふまえて、次の問いに答えなさい。

問)インド洋地域で、イギリスやフランスの東インド会社は、インド綿布を中心にした貿易活動から植民地支配へと進んだ。18世紀半ば頃のイギリス東インド会社によるインドの植民地化過程を、フランスとの関係に留意して4行以内で説明しなさい。

(2006年 東大)

///////////////////////////////////////////////////////////////

≪解説≫

簡単そうに見えて、よく考えると難しい問題だ。イギリスのインド支配についてはいろいろな事件がある。あれも書きたいこれも書きたい、と気負うところだが、冷静に問題文を見てみると、「18世紀半ば頃」という時代の限定がある。すると、意外に書けることが絞られてくる。

イギリスの東インド会社が支配領域を拡大していった、マイソール戦争(1767~99年)、マラーター戦争(1775~1818年)、シク王国との戦争(1845~49年)は、いずれも「18世紀半ば頃」という時代設定からずれている。もちろん、東インド会社の商業活動停止(1834年)やシパーヒーの反乱(1857~59年)、ムガル帝国の滅亡(1858年)やインド帝国の成立(1877年)は19世紀のことだ。

--------------------------------------------------------

<ポイント>

インドとイギリスをめぐる18世紀半ばのポイントは次の3点だ。

1)アウラングゼーブ帝の死後(1707年)、ムガル帝国の支配力は急速に弱体化し、インドは各地方勢力が独立して分裂状況となった。

2)そんな中、インド貿易をめぐってイギリスとフランスが対立し、プラッシーの戦い(1757年)やカーナティック戦争(18世紀半ば)を通じてイギリスが勝利した。

3)イギリスはムガル帝国からベンガル州とビハール州の徴税権を獲得し(1765年)、インド植民地支配の第1歩を踏み出した。

キーワードを3つだけ挙げるとすると、「プラッシーの戦い」「カーナティック」「徴税権」だろう。

--------------------------------------------------------

<解答例>

ムガル帝国が弱体化する中、18世紀半ばのプラッシーの戦いやカーナティック地方での戦いにおいて、イギリスはフランスを下してインドにおける優勢を確立した。また、イギリスがムガル皇帝からベンガル州やビハール州の徴税権を獲得したことは、イギリスによるインド植民地支配の第1歩となった。

--------------------------------------------------------

<補足>

「ムガル帝国の弱体化」や「徴税権の獲得」が思いつかなかったら仕方がないが、そうすると4行を埋めるのに苦労する。「プラッシーの戦い」だけで解答欄を満たすのは難しいだろう。点差がつくのはこのあたりか。「プラッシーの戦い」すら書けないようでは0点だろう。

--------------------------------------------------------

<教科書の記述>

少し長くなるが、教科書の記述(山川出版社)を読んでみよう。

「18世紀のなかばに、インド南部のカーナティックとよばれた地域を舞台に、オーストリア継承戦争や七年戦争と関連して英仏両勢力とインドの地方勢力が入り乱れてくりひろげられた戦争や、インド東部でベンガル地方政権とフランスとの連合勢力がイギリスと抗争したプラッシーの戦い(1757年)などは、そうした例である。けっきょく、軍事力と資金力にまさるイギリスは、パリ条約(1763年)でインドでの英仏抗争に決着をつけた。つづいて、インドの諸政治勢力に対し、東部ではベンガル・ビハール両地域の徴税権を獲得(1765年)して財政基盤を確保し(後略)」

--------------------------------------------------------

<歴史書の記述>

引用ばかりで恐縮だが、次に歴史書の記述を少しだけ見てみよう。

「イギリス東インド会社は18世紀なかば、オーストリア継承戦争、七年戦争という二度にわたる世界的規模での戦争のなか、インドではフランス東インド会社と戦い、その過程において、インド内にしだいに領土というべきものを獲得していった。」

「1763年、パリ条約で七年戦争が終わり、それにともなって58年から始まっていた第3次カーナティック戦争も終結し、イギリスのカーナティック地方での優位が確立した。」

「1765年、ムガル皇帝はイギリス東インド会社にベンガル州(オリッサを含む)とビハール州のディーワーニー(徴税財政権)を授与した。それは、事実上、ベンガル・ビハール地方がイギリス東インド会社の領土となったことを意味していた。こうして、イギリスはインド植民地化への大きな一歩を踏み出したのである。」

(以上、辛島昇「南アジア史」世界各国史7 山川出版社 p260~261より)

辛島昇 南アジア史 (新版 世界各国史) 山川出版社

--------------------------------------------------------

<場所の確認>

カーナティック地方

インド亜大陸の南部の東岸(ベンガル湾側)で、セイロン島の向かい岸にあたる地域。

ベンガル州

ガンジス川下流域で、ガンジス川がベンガル湾に流れ込んでいる地域。ベンガル語を話すイスラーム教徒が多い。その東部は現在ではバングラディシュ。オリッサ地方はベンガル州に南隣するベンガル湾に面した地域。

ビハール州

ガンジス川中下流域で、ベンガル州よりガンジス川を少し上流にさかのぼったところにある。州都パトナは、昔はパータリプトラといい、前3世紀にインドを統一したマウリヤ朝や後4世紀に成立したグプタ朝の首都が置かれた。

--------------------------------------------------------

<ディーワーニー(徴税財政権)>

ディーワーンとはムガル帝国の州の財務長官のこと。ディーワーニーとはその職とその権限を意味する。つまり、ある地方のディーワーニーを得るということは、その地方から地税などの税を徴収し、そこから軍事費や行政費を支出できる力を持つ、ということになる。

1765年、イギリス東インド会社は、ベンガル州とオリッサ州のディーワーニー(徴税財政権)を得て、その両州を事実上の植民地としたことになる。

設問で聞かれているのは、「18世紀半ば頃のイギリス東インド会社によるインドの植民地化過程」だ。そうすると、プラッシーの戦いよりも、徴税権の獲得の方が重要かつ中心になるべきだろう。

--------------------------------------------------------

<植民地化と産業革命>

18世紀半ばという時代は、イギリスで産業革命が始まるかどうか、といった頃だ。

教科書の配列では、産業革命による工業化の進展→植民地の拡大と世界分割→帝国主義戦争としての第1次世界大戦、という流れになっている。

しかし、実際には、産業革命よりはるか以前に、スペインはアメリカ大陸を植民地化している。また、上で見たように、イギリスによるインド植民地化の開始も、工業化が本格的に始まる前に起こっている。

植民地の拡大を、工業化や帝国主義の帰結としてのみとらえるのは一面的で、工業化や帝国主義に先立つ植民地支配にも目を向けなければならない。

本問が18世紀半ばという時代にスポットを当てているのは、そういう観点から見ると意味深く感じる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«インド亜大陸のイスラーム化