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18世紀半ばのインドとイギリス

≪問題≫

インド洋世界の中心に位置するインド亜大陸は、古来、地中海から東南アジア・中国までを結ぶ東西海上交通の結節点をなし、また、中央ユーラシアとも、南北にのびる陸のルートを通じてつながりを持ち続けてきた。以上の背景をふまえて、次の問いに答えなさい。

問)インド洋地域で、イギリスやフランスの東インド会社は、インド綿布を中心にした貿易活動から植民地支配へと進んだ。18世紀半ば頃のイギリス東インド会社によるインドの植民地化過程を、フランスとの関係に留意して4行以内で説明しなさい。

(2006年 東大)

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≪解説≫

簡単そうに見えて、よく考えると難しい問題だ。イギリスのインド支配についてはいろいろな事件がある。あれも書きたいこれも書きたい、と気負うところだが、冷静に問題文を見てみると、「18世紀半ば頃」という時代の限定がある。すると、意外に書けることが絞られてくる。

イギリスの東インド会社が支配領域を拡大していった、マイソール戦争(1767~99年)、マラーター戦争(1775~1818年)、シク王国との戦争(1845~49年)は、いずれも「18世紀半ば頃」という時代設定からずれている。もちろん、東インド会社の商業活動停止(1834年)やシパーヒーの反乱(1857~59年)、ムガル帝国の滅亡(1858年)やインド帝国の成立(1877年)は19世紀のことだ。

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<ポイント>

インドとイギリスをめぐる18世紀半ばのポイントは次の3点だ。

1)アウラングゼーブ帝の死後(1707年)、ムガル帝国の支配力は急速に弱体化し、インドは各地方勢力が独立して分裂状況となった。

2)そんな中、インド貿易をめぐってイギリスとフランスが対立し、プラッシーの戦い(1757年)やカーナティック戦争(18世紀半ば)を通じてイギリスが勝利した。

3)イギリスはムガル帝国からベンガル州とビハール州の徴税権を獲得し(1765年)、インド植民地支配の第1歩を踏み出した。

キーワードを3つだけ挙げるとすると、「プラッシーの戦い」「カーナティック」「徴税権」だろう。

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<解答例>

ムガル帝国が弱体化する中、18世紀半ばのプラッシーの戦いやカーナティック地方での戦いにおいて、イギリスはフランスを下してインドにおける優勢を確立した。また、イギリスがムガル皇帝からベンガル州やビハール州の徴税権を獲得したことは、イギリスによるインド植民地支配の第1歩となった。

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<補足>

「ムガル帝国の弱体化」や「徴税権の獲得」が思いつかなかったら仕方がないが、そうすると4行を埋めるのに苦労する。「プラッシーの戦い」だけで解答欄を満たすのは難しいだろう。点差がつくのはこのあたりか。「プラッシーの戦い」すら書けないようでは0点だろう。

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<教科書の記述>

少し長くなるが、教科書の記述(山川出版社)を読んでみよう。

「18世紀のなかばに、インド南部のカーナティックとよばれた地域を舞台に、オーストリア継承戦争や七年戦争と関連して英仏両勢力とインドの地方勢力が入り乱れてくりひろげられた戦争や、インド東部でベンガル地方政権とフランスとの連合勢力がイギリスと抗争したプラッシーの戦い(1757年)などは、そうした例である。けっきょく、軍事力と資金力にまさるイギリスは、パリ条約(1763年)でインドでの英仏抗争に決着をつけた。つづいて、インドの諸政治勢力に対し、東部ではベンガル・ビハール両地域の徴税権を獲得(1765年)して財政基盤を確保し(後略)」

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<歴史書の記述>

引用ばかりで恐縮だが、次に歴史書の記述を少しだけ見てみよう。

「イギリス東インド会社は18世紀なかば、オーストリア継承戦争、七年戦争という二度にわたる世界的規模での戦争のなか、インドではフランス東インド会社と戦い、その過程において、インド内にしだいに領土というべきものを獲得していった。」

「1763年、パリ条約で七年戦争が終わり、それにともなって58年から始まっていた第3次カーナティック戦争も終結し、イギリスのカーナティック地方での優位が確立した。」

「1765年、ムガル皇帝はイギリス東インド会社にベンガル州(オリッサを含む)とビハール州のディーワーニー(徴税財政権)を授与した。それは、事実上、ベンガル・ビハール地方がイギリス東インド会社の領土となったことを意味していた。こうして、イギリスはインド植民地化への大きな一歩を踏み出したのである。」

(以上、辛島昇「南アジア史」世界各国史7 山川出版社 p260~261より)

辛島昇 南アジア史 (新版 世界各国史) 山川出版社

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<場所の確認>

カーナティック地方

インド亜大陸の南部の東岸(ベンガル湾側)で、セイロン島の向かい岸にあたる地域。

ベンガル州

ガンジス川下流域で、ガンジス川がベンガル湾に流れ込んでいる地域。ベンガル語を話すイスラーム教徒が多い。その東部は現在ではバングラディシュ。オリッサ地方はベンガル州に南隣するベンガル湾に面した地域。

ビハール州

ガンジス川中下流域で、ベンガル州よりガンジス川を少し上流にさかのぼったところにある。州都パトナは、昔はパータリプトラといい、前3世紀にインドを統一したマウリヤ朝や後4世紀に成立したグプタ朝の首都が置かれた。

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<ディーワーニー(徴税財政権)>

ディーワーンとはムガル帝国の州の財務長官のこと。ディーワーニーとはその職とその権限を意味する。つまり、ある地方のディーワーニーを得るということは、その地方から地税などの税を徴収し、そこから軍事費や行政費を支出できる力を持つ、ということになる。

1765年、イギリス東インド会社は、ベンガル州とオリッサ州のディーワーニー(徴税財政権)を得て、その両州を事実上の植民地としたことになる。

設問で聞かれているのは、「18世紀半ば頃のイギリス東インド会社によるインドの植民地化過程」だ。そうすると、プラッシーの戦いよりも、徴税権の獲得の方が重要かつ中心になるべきだろう。

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<植民地化と産業革命>

18世紀半ばという時代は、イギリスで産業革命が始まるかどうか、といった頃だ。

教科書の配列では、産業革命による工業化の進展→植民地の拡大と世界分割→帝国主義戦争としての第1次世界大戦、という流れになっている。

しかし、実際には、産業革命よりはるか以前に、スペインはアメリカ大陸を植民地化している。また、上で見たように、イギリスによるインド植民地化の開始も、工業化が本格的に始まる前に起こっている。

植民地の拡大を、工業化や帝国主義の帰結としてのみとらえるのは一面的で、工業化や帝国主義に先立つ植民地支配にも目を向けなければならない。

本問が18世紀半ばという時代にスポットを当てているのは、そういう観点から見ると意味深く感じる。

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